昭和40年09月25日 朝の御理解



 天地の親神様が私共の為にご苦労下さる。教祖金光大神様、私共の為にお取り次ぎをなして下さる。親先生が私共信者の為に修行をして下さる。そう云う様な思い方そういう思い方そういう一つの思込みが、段々強うなって来る所から真の信心がでけて来る様になるのじゃないかと思う。天地の親神様が私共の為にお働き下さる。教祖金光大神様が、私共信者氏子の為に、お取り次ぎの働きをなして下さる。
 親先生が私共信者の為にご修行下さる。そういう一つの思い込みがね、そういう思い込みが出来てこの信心がなされる時に私は真の信心がでけると思う。この真の信心を、お互い目指して頂くので御座いますから。昨日、何とした話からだったでしょうか。秋永先生が朝お礼に出て見えて、夕べは徹夜で御座いました。前の日の霊祭を奉仕して、お祭りが終ってすぐ帰られた。
 その前の日に展示会があっておりましたもんですから、展示会の後片ずけやら整理の為に、とうとう、昨日の朝の(言葉?)に徹夜で、そしてそのまま椛目にお礼に出て来た、とこういうておられます。その時のお話だったんですけれども、本当にあの、椛目の総代さん方がご造営が始まって非常に信心が生き生きしてみえられた。恐らくこの御造営が成就したその暁には、一段と信心が飛躍され、垢抜けされるだろうと。
 それは自分にも各々気が付かれんのだろうけれども、信心が進まれる事だろうと云う話が出ておりました。そうですまあ確かにそうです。それはどう云う様な事からかと、毎日お参りをすると言った様な事においては今までと、さほど変わらないのだけれど御造営が始まらして頂いてからこっち、総代さん方がまあ云うならばうって一丸になって、お広前を中心にご造営を中心にして、その事の成就の為に信心の稽古をなさる。
 言わばその為の信心の修業をなさる、その辺から信心が違って来るのだと云う事を私は感じました。自分なら自分の、一身上の事とかー家の事と言った様な事ではなくてです、それをお広前を中心にして、それがなされる。その為の修行がなされる。そう云う様な信心からです、自ずと真の信心が身に付いて来るんだとこう思う。これも矢張り秋永のお婆ちゃんが昨日夕方、おじいちゃんと一緒にこちらの親戚の方へ、御霊さんの、お祭りのまぁまぁ、行っておられた。
 帰りに二人寄っての話で御座いましたが、本当に霊さんのお祭りの日に、御祭典中に先生が倒れなさった。先生が私共の為にー生懸命御修行下さる、私共がしゃんとせんもんだから、先生におご苦労かけて相済みませんと言うその思いで、一杯であったら横におられたお婆さんが云われる。先生がこの頃ちっと肥え杉なさったけんで、やっぱ肥えなさったけんあげん、あんなさったつじゃろうち。どちらもおなじです。
 けれどもその私が今日云おうとする所です、成程私肥え過ぎたから、倒れたのかも知れん。けれどもそれがもっと本当であったかも知れん、本当に御霊さんを初め信者の言わば願い事、なら願い事と云うものが百斤ある、それに私が八十斤しか持てる力がないもんだから、その二十斤の所を、やっとかっとで支えておるから、倒れる様な事になったんだと云う事は、それはもっとそれよりも本当かも分からない。
 その本当な事をですね本当な事を秋永のお婆ちゃんは思い込んでおられる。そこに次にあるものは、はあ先生ようなんなさつたと云うだけではなくてから、その後に受けておられる感激が違う。本当に親先生が私共の為に御修行下さると云う思い方の、その後にはこの感激が違う。これはやっぱり秋永先生、昨夜北野の共励会で御座いましたから、昨日ばっかりは秋永先生はみえんと思うておった。
 久富先生が一人でおいでられて、今日は久富先生だけ、久富さんと、久富勇さんと久富先生と、帰って見えたから、もうこれであのやっぱり見えてなかったなあと、こうお思った。二人がもう帰られよつた、そしたら秋永先生が見えて、あらぁあぁた見えとつたんですかっちいって、はい参って来ておりましたっち言って。それを久富先生が、おつしゃらんもんですから私、見えとらんと思うばつかり、もう今日という今日はあぁた見えとらんと思いよつたのに。
 まあ、と言ってそれから引き返されてから、勿論あちらの丁度御祈念中に見えたと云う事である。自分の事やら自分の身上の事やらであったら必ず、もう理由が付きさえすればですね、理由が付きさえすれば昨日はちょっと頭が痛かったけん御無礼しましたとか、忙かしかったけんで御無礼しましたと、もう言うてもそうでしたかで。何でもないですね。いわゆる大体いうたら信心は、言い訳はでけんと仰る、言い訳にはなる事は無いと仰る。前の晩から寝なしでしたもんだから。
 昨日はとうとう御無礼しました、でもよかった。所がですね、その信心の中心が違う。願い自分とか自分一家の為と言った様なものではなくてです、矢張りお広前が中心であるという信心から、そういう私は信心がでけるのだと私は思うですね。私は北野の大祭の共励を受けられた方達は本当、あだや、疎かにしちゃならんと思うですね、別に自分が浅がたでもなる訳でも無し。
 そう言う事ではないけれども、本当に言うならば前のばんから寝なしであり、そして霊祭を仕えて、しかも朝お礼に出て見えとられるのであるから、もう、とても私は、見えんと思うておったけれども、やっぱり見えた。それを私、だんだんこう、思わせて頂くのにですね。しょう事なしと云うわけではないでしょうけれども、まあ普通の信心では、それはでけませんですね。
 ー番に申します様に、天地の親神様の、お働きを、自分の上に受けておると。その実感、教祖の神様が私共のために、お取り次ぎ下さってある親先生が、私共のために修行しておって下さるという、そういう一つの思いこみがです。自分の事ではない、なら金光様のために又は、お広前のために、天地の親神様に対する、そうしたお働きに対する、神恩報謝の意味においてです、それがなされて行く。私はそういう信心を私は真の信心だと云うふうに思うですね。
 お参りしてこげなおかげば、頂だかんならんからというのではない。どうでしょうか皆さん。そういう意味で例えば総代さん方の御信心と云うものがです、お広前を中心にしての信心が特別にでけておられると云う事がです、それは総代としての責任上どうでもこうでもおかげ頂だかんならんから、お縋りしなければならんからという信心で、まあ意欲を燃やしておられるのですけれども。
 その信心が一つの成就になつた時にです。それが自分の事に、この事におかげ頂だかんならんからと、ー生懸命になつた時と、その中心を、矢張り本当な所に、中心をもって来ての信心がなされた時に、その後にです、信心が飛躍されるだろう、信心が、一段と高められるだろうと云う様に、昨日、お話しをしておりました様にです。そういう信心から、本当な信心が身に付いて来るのじゃないだろうか。
 私は本当に天地の親神様が、この信心をさして頂く者の上に、もう皆んなに、おかげを下さっておるだろうけれども、特別の、こちらの、その心の働き如何によって、特別の働きを実感さしてもらう、神様が私共の為に、お働きを下さっておるという、その実感がです。普通ではなされない信心が、それが当たり前の事として、なされて行ける様に段々なつて来るとこう思う。
 教祖の神様が私共の為に、お取り次ぎを下さっておるという、親先生が私共信者の為に、御修行下さっておると云う、そういうひとつの思い込みがです、言わば美しい信心、いわゆる真の信心が出来て来る。そう言う様な信心がです、当り前のごとして。なされて来る時です。私は神様の思いというか、例えて、これを申しますならば自分を中心にした所の信心であるならです、どんなにでも理由はつく。
 又理由をつけるのです。昨日おかげ頂こうと思いよりましたばってんこうでした。こういう信心から、どうしてももうー歩本当の信心へ踏み込ませて頂く事の為にです、私共も少し神様の特別の御守、特別なご守護を受けておると云う事を実感さして貰。神恩報謝の為の信心、各々の信心を自分で検討して見て、こう云う所にポイントを置いたら、信心では信心の成長はなされん。
 折角信心の焦点をです置くならば、本当の所に置かせて頂く事によってです、信心が成長すると云う事。神様の本当の願いの為に、私共が奉仕さして貰うと云う信心。ですからもうす出に填りが違うんです。私は昨夜北野から皆さん帰って来るのを待っておる間、ですからもうやがて十一時近くだったでしょうか。北野の関さん達親子が遅くからお礼に見えて長男がお取り次ぎさして貰よった。
 私は本当に有難いと思うたんですけれども、前の日の霊祭りの日もお忙しくて晩遅う参って見えた。ですから霊祭りの日の雰囲気とか、その模様と云うのを関さん達親子、全然知っておられない。それで昨日その御霊祭りの日の事をです、も本当につぶさに二人に伝えとるんです。例えばその模様を伝えるだけじゃなくて、その模様の中から自分が頂いた信心を又それに付け加えておるんです。
 私があの時伝えさして頂いた御理解を、もう見事に要約して伝えておるんです。ああ言う様な事まで、この人の信心の中にです、はっきり心の中に受け止めておったんだなあと云う事を、私あちらで聞かせて頂いておった。それを関さんに、その霊祭の模様を伝えさせて頂いておる、そう言う様な事でもですね、只、熱心に聞いておったから、熱心に神様を拝んでおったから。
 ああ言う風に頂き止められたと云う風には思わんです。例えばそのポイントが違うんです。私その時にも申しました、その前夜長男が云うておりました様に、これからの自分の生涯と云うものはです、神様の願いの為に、奉仕さして貰うとか、捧げるとかいう腹がいよいよ決まったというております様にです、おかげば頂かんならんけん、これから、一丁信心しようと云った様なものじゃないと云う事を、そこにです皆とは違った受け方、私が本当にここが分かって欲しいと云う、その所をです。
 本当に、もう余す所無しに把握しておると云う事。そして、あの雰囲気の中から、自分の頂いた信心、をハアーそう言う事まで、分かってくれておったかと言う様な、そこを関さん達親子に伝えておるのを聞かせて頂いてから、私はそんな事を感じる。自分に都合の良い、お説教でも何でも自分の都合のよかとこだけしか頂いとらん。それがお互いの信心が小さいから、真の信心じゃないから。
 そお云う例えば神様の、おかげを受けておると言う事がです。神様のおかげを受けておると言う思い込みが、金光様が私共の為にお取次ぎをなして下さっておると言う思い込みが、親先生が私共の為にです修行しておって下さると言う思い込みが、ない只自分を中心にしただけの信心であるから、出て来る答えが違うのじゃないかとこう思うのです。何かの矢張り機会と云うか。
 中々チャンスと言うものがです自分の心を本当の事へこう切り返さして貰本当の事をそう思い込ませて頂く機会と云うものに、お互いが例えば恵まれておりましてもですそれを迂闊にしておっては、そのチャンスをチャンスとして活かす事が出けん。どうでしょう椛目に御神縁を頂いとる皆さんがです、御造営なら御造営と言う機会を頂いたのですから。日頃は、私共の願いの為にー生懸命お参りしよった人達がです。
 御造営の御成就の為に、この修行がこのお参りがでけると言う様な風に私は思いを変えられたら、それは別に、どうとすぐ答えが出る訳ではなかろうけれども、御造営成就の暁にです。昨日、秋永先生方と一緒に話した時に申しました様に、椛目の御信者さん達が、見かけない総代さん方が、自分達でも、ある意味合いで責任上かも知れません、総代としての。けれども今までとはポイントが違う焦点が違う。
 ですから、いうならそれを感じておるです、椛目の総代さん方が、恐らく御造営が済んだ暁には、それこそ合楽教会にふさわしい、いわゆる椛目教会の総代じゃない合楽教会の総代としてふさわしい総代さん方が出けるだろう。先生がもう家の総代、バカんごと言いなさる、もうあんただん先輩が素晴らしいとばい、もうあんただん取り巻きがよかとばい、まるで総代さんの、そげなもんが、おつてもおらんでもよかじゃないかと、云う様な事を何時も云われるけれどもです。
 けれども矢張りそれを黙ってその、受けていかれる、と言う事が素晴らしい。まあそのそんな事でしたけれど、是は先輩も素晴らしい後輩も素晴らしい、けれども中心に居る例えば総代も、まあ云うならばもっと実をいうたら素晴らしいのかも知れん。それがその素晴らしいもんであるしょうこに信心が、こうやって続けられておると言うだけじゃなくて、その本当な事へしょうてんをおいて、しかも総代なら総代がうって一丸になっての、その信心がでけて息よると。
 しかも、それがご造営の暁にはです、何か一つの形に現れてです、自分もしながらもあのご造営を境にご造営によって、この力を頂いたんだなあ、お徳が受けられたんだなあ、と言った様なものが、出来られるだろうと、言わば雌伏の目に止まって居ると云う事が有り難い。どうでしょうかね。こういうよいチャンスは無いと思う。ご造営の事の為にです、私はその奉仕する信心が出来る。
 それとても番初めに申しました様にです、神様のおかげを特別に受けておる、金光様のお取り次ぎを日夜頂かせて頂いておるおかげでです、親先生に何時も私共の為にです、それこそ足腰立たんごと親先生には、ご苦労かけておるんだと思い込みが、私はそう思いなさいと、いいよるとじゃないですばい。そういう例えば思い込みがです、でけた時に、でける時にです、自分を外した本当な事への中心。
 本当な事への焦点の、置き換えられる所の信心が、でけるのではないだろうか、よくよく、一つ考えて見てです、先生が体が太っとんなさるから、倒れなさったつじゃろう、と言った様なその思い方を自分の心の中に、あれやら、これやら思うて整理してです、整理したから、でける訳でもなかろうけれどもです。秋永のお婆ちゃんじゃないですけれども、もう親先生、ご苦労かけてすいません、と言った様な思い込みが、どう云う所から、まあ生まれて来たのか分かりませんけれども。
 そういうあり方の人の上にです、私はこれを秋永一家の事あかり申しましたけれどもです。前の晩は夜通しで、そして朝お礼に出られて今日と言う今日は、云うなら出て来んでも皆が疲れておる事を知っとるから、御無礼しましたで済むのだけれども、そげな事も、もう全然その問題に、昨日も今日という今日は、不思議に眠くなくてー日御用が出来ましたと夕べ、いうておられました様にです。
 そういう特別な神様の働きと言うものがです、そういう根本に思い込みが段々でけて来よる事に対して神様は、おかげを見せて下さるのじゃないだろうかと。それを又なら受ける、北野の方達はです、それば仇や疎かにしてはいけない、と言う風に申しましたんですけども、そこにです神習わして貰うのは、そう言う様な所の信心を私は神習わして頂かなければ、いけんのじゃないかという風に思うですね。
 どうぞ真の信心真の信心と申しますけれども、それを本当に身近に真の信心を感じて、身近に真の信心を行じて行くと云う事。初め何が何やら分からんにしても、焦点を変えて総代さん方がです、その自分以外のことの為に、言わばお参りをなさり修行をしておられると云う様な信心から、それが自分の物に身に付いて来る、血に肉になって来る、真の信心が。来る様な、おかげが頂けるのじゃないだろうか、こう思うですね。
   どうぞ。